書評「進化生態学入門 ―数式で見る生物進化―」

数理生物学会ニュースレターに載せた書評です。GWにどうぞ。

進化生態学入門 ―数式で見る生物進化―

進化生態学入門 ―数式で見る生物進化―

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  • はじめに

進化生態学の理論研究に興味はあるが第一歩が踏み出せない人、あるいは初学者が、そのような研究発表を見聞きするときに感じる違和感は何なのであろうか。
・なぜ生物の進化をこんな簡単な式で表現できるのだろうか?
・なぜ生物の研究なのに生化学的な過程や発生学的な観点が表面化しないのか?
・なぜ進化の研究なのに系統樹を用いて議論しないのだろうか?
・適応度を最大化するように進化するだけではないのか?
・多様性の多くは変異と浮動のバランスによって維持されているのでは?
以上のような素朴な問いかけに、一定の回答を与えているのが本書である。

ポストゲノム時代を迎え、ゲノム情報のみならず発現や代謝に関する網羅的な解析が急ピッチで進んでいる。驚くべきことに、生命システムの維持に不可欠とされる機能をコードする遺伝子群のいくつかは、正の淘汰を受けていたことが明らかになってきた。すなわち、生体内外における適応の歴史や分子間の軍拡競争が生命システムを進化させてきた、とする生命観の再興である。分子生物学的な実験による研究であっても、その落としどころをそのような生態学的相互作用にみる研究は、トップジャーナルでより顕著になってきている。以上より、進化生態学になじみの深い適応の概念やその方法論は、今多くの人たちに必要とされている。

しかしながら、初学者にとって、進化生態学で用いられている理論はとっつきにくい。この特有のとっつきにくさは、理論が要求する数理的取り扱いだけに起因するわけではない。理論の前提条件や仮定・慣例についてわかりやすく説明された教科書が少ないからである。本書は、初学者に対する参入障壁を可能な限り取り除いて解説された数少ない入門書である。

  • 本書の内容・特徴

本書は、初学者を主な読者と想定しているため、数式の数は少ない。しかし、ひとたび数式が現れると全ての項について説明が加わるといった具合に、決して読者を置いてきぼりにすることはない。また、理論モデルが要求する前提条件や仮定・慣例についても、大きなページを割いて説明してある。本書にある具体例を1つ挙げよう。「タラコとイクラのサイズの違いを考えるとき、なぜ進化生態学の理論はi)生理的な制約の結果であるとは考えず、ii)生息環境が適応度に及ぼす影響の相違に起因すると考えるのか」という質問に対して、「理論生態学的な観点からは、まずは生物の形質はトレードオフや利益と損失のバランスで決まる最適解であると見なし、それで説明ができない場合に外的な制約での解釈を試みる」と、明確に著者の考えが述べてある(第2章)。このような例として、小さい突然変異の蓄積による漸進進化の仮定や、戦略を決めている遺伝子の伝達機構の単純化など、「モデルのコツ」に関する解説がちりばめられてある。それでは、具体的に本書の構成を見てみよう:

序章 生物学と進化学
第1章 進化に関する基礎知識
第2章 自然淘汰に基づく適応戦略の進化
第3章 適応度最大化に基づく進化モデル
第4章 ゲーム理論とその展開
第5章 血縁関係と利他行動の進化
第6章 性淘汰と配偶者選択の理論
第7章 有性生殖の進化
付録 一年生植物の最適成長スケジュール、血縁淘汰と群淘汰の相同性
コラム 集団遺伝学の3賢人とその弟子たち、ジョン・メイナード-スミス、ウィリアム・ハミルトン、ジョージ・プライス

序章および第1-2章が、進化生態学の理論における前提条件や仮定・慣例の根幹をなす。進化生態学的過程を理論的に扱うために必要な知識が簡潔にまとめられ、「変異遺伝子の頻度の変化とその固定をもたらす力学こそが進化」という概念を理解できるようになるだろう。類書では扱われることの少ない中立変異や分子系統学についても紹介されており、進化生態理論の射程について俯瞰することができる。このパートが初学者へのハードルを引き下げる部分に該当するのであれば、次の第3-5章は、実際に読者がそのハードルを自力で乗り越えるパートとなる。各章の始めに、高校生でも理解できる数式を用いて基本となる理論が説明される。続いて、その理論を具体的な問題に適用していくといった流れで章は進む。動的最適化の直感的説明や、古典的ESS・ナッシュ均衡・適応ダイナミクスにおけるESS・CSSの包含関係に関する整理などは、類書ではなかなか見られず勉強になる。近年理論研究が飛躍的に進んだ血縁淘汰についても、プライス方程式を用いた血縁度の再定義や、群淘汰と本質的に同値であるといった議論など、大変わかりやすく説明されている。第5章を読めば、ヒトとチンパジー間の血縁度は0.99とはならないことを、納得できるだろう。第6-7章には数式はなく、読み物として完結している。特に第6章では、数理モデルの仮定や解析結果の解釈に力点が置かれており、生物学的な振る舞いから目を離さなければ、数式を用いずとも数理モデルの本質が伝わることを実感するだろう。第7章では、(群淘汰的な)長期的利益と(個体淘汰的な)短期的利益とを区別して、有性生殖の進化の仮説について議論されている。この視点は有性生殖の進化のみならず進化一般に有効であり、しっかりと押さえておきたい。ここで紹介される「決定論的突然変異仮説(by Kondrashov)」や「減数分裂に伴う染色体修復仮説(by Michod)」などは、なじみのない方も多いのではないだろうか。他にも、戦略と戦術の区別や、変動環境への適応だけでは戦略の多様性は生まれないことなど、間違いやすいポイントが繰り返し説明されており、入門書の第一候補として推奨できる内容である。特筆すべきは、進化生態理論の祖とも言える偉人たちの生き様について触れてあるコラムであり、類書ではなかなか見られない。理論手法の系譜をたどることも、また楽しみの一つである。

各章間での独立性は保たれているため、読者は気になるトピックからつまみ食いすることが可能である。ただし、進化生態理論で用いられている手法を俯瞰する目的のためなら、2章から5章までは順に読んだ方が得られる物が多いだろう。なお、本書からは個体群動態の理論が除かれているが、その点については日本語で読める良書がたくさんあるので、それらを勉強してから進化動態との統合に挑めば良いだろう。

  • おわりに

本書で示された理論の前提条件や仮定を拡張する試みは、進化生態理論における重要なテーマの一つである。その意味で、遺伝学的制約や発生学的制約を明示的に組み込んだモデルがトレンドとなりつつある。そのようなモデルの理解・構築のためにも、初学者はもちろん、進化生態の理論に馴染み深い読者にとっても、本書とじっくりと向き合うことをぜひ薦めたい。